ブラック研究室での生活を赤裸々に書く 2年目後期~卒業編

理系修士時代にブラック研究室にいた時の話をします 2年目後期~卒業編

私が修士時代に所属していたブラック研究室について書いていきます。

今回は修士2年の後期~卒業までについて書いていきますが、修士2年前期の記事はこちらから見られます。

これまでの記事で就職活動が終わり、研究活動のみを行うBotのような生活を送っていました。

このことは毎日朝8時に登校し、夜10時まで実験をして帰るという嫌すぎるルーティーンをこなします。

なんでこの時間なのかというと、教授が8時半ごろに出勤して、夜9時半ごろに帰るからです。

就職してから気付くのですが、普通に会社員よりキツかったです。そもそも残業代が出ないどころか学費も取られるなんて凄まじい搾取です。

ブラック会社も真っ青になるレベルですね。

今になって思えば修士なんていう学位がそこまでの価値があるのかは分かりませんが当時はとにかく毎日言われた事をやるだけの生活を送りました。

ただ、考え方や物事の進め方だけは他の研究室の学生よりも高い水準に行けたかなと思います。

プレゼンの作成能力とかも他の学生より明確に上手くなっていたと思います。教授に叱られまくって本当に泣きながら作成していましたからね。

そりゃレベルも上がるわっていう話です。

ここでプレゼンについて研究室内でも軽く伝説になっている逸話を1つ挙げておきます。

それは私ともう一人の同期が修士の中間発表という10分間程度のプレゼン発表をする時でした。

当時の教授は非常に機嫌が悪く(博士課程の学生の影響)、私と同期1名がどれだけプレゼン資料を作ってもOKを出してくれなくなりました。

まぁ当時の私たちのレベルは低かったのでそれも仕方がないのですが、プレゼンの日付は決まっていたので毎日2人で徹夜していました。

1日くらいの徹夜ならザラだったのですが、その時は冗談抜きで一睡もせず3徹しました。(同期はちょっと寝ていた)

結果的に3徹してから発表の前日になって教授から嫌そうな顔でOKをもらいました。当然スーツを取りに帰る+ヒゲをそるなどするために帰宅が許可されました。

ちなみにアメリカ軍の発表だと人間は4徹が限界らしいです。

家に帰ってからはすぐに寝ましたが、寝るときは本当に「もう目覚めないかも知れない、このまま帰らぬ人になるかも」と思いましたが普通に8時間後に起きました。

起きたときにすさまじく清々しい朝だったのを覚えています。非常に気持ちよかったです。

そしてプレゼン発表を行い、その後に研究室内で反省会という「どこが悪かった、ここをもっとこうすべき」みたいなのを全員から言われる地獄を過ごしてその日は終わりました。

その夜ははやくに解散できた(教授は指導員同士の飲み会に行った)ので私も同期と一緒に回転寿司屋にいって愚痴ったのを覚えています。

ちなみにその同期は日本人ではなく東南アジアからの留学生だったので「日本やばいわ」みたいな愚痴を大量に言われましたね。

日本人は自分たちの異常性に気付いてないよみたいに言っていましたが、いやいや普通に分かってるわと心の中でつっこみました。

待ちに待った最終発表会

修士課程は2月になると卒業を決める最終発表というプレゼン発表会があります。

一応表向きはこのプレゼンで評価する教授たちからの点数が平均で60点以下だと留年するんですが、まぁこれで落ちた人なんて聞いたことないですね。

そんな最終発表までに出すべき実験データがあります。

私は研究室内では「改心した不良」みたいな扱いを受けていたくらいに大量の実験をこなしていたので十分な実験データがありました。

しかし、ここに実験データが足りていない学生がいました。

それが博士課程のYさんです。博士課程の場合は卒業条件として2本の論文を投稿する必要がありますが、彼は卒業年度の12月にまだ論文を1本しか出していませんでした。

当然論文を出すには多くの実験結果と一定の成果物が必要です。しかし彼は一切実験をせずに研究室にも来ない事があるぐらいボイコットをしていたので教授も完全に見捨てていました。

そのためYさんは教授のことをひどく恨んでおり、学生指導課にもパワハラを訴えていました。

しかし教授はそこからの注意も完全に無視していたので、Yさんの留年は確定していました。

そこでYさんは驚愕の行動を起こします。そう、研究室が保有する実験設備を破壊したのです。

その事件があったのは1月中頃で、私の最終発表の準備にも多大な被害が出ました。ただ、彼は小物なので飛び蹴りをして物理的に破壊などはせず、設備に入れてはいけない物質を入れて実験をしました。

しかし、その影響はさすまじく、これまでの実験との再現性は全く取れなくなり直すのにめちゃくちゃ時間がかかりました。

というか私が卒業するまで完璧には直りませんでした。これのせいで卒業式の直前にも研究室で作業したので私はYさんをかなり恨んでいます。

破壊するならせめて直しようがないレベルで壊せよ・・・カンフー使いみたいにさぁ・・・。

最終発表後に最後の反抗を行う

そうこうしている内に最終発表を終えて卒業単位を満たしたので修了要件を満たしました。

これで晴れて卒業です。一時期は早く卒業したいしか言えないBot人間みたいになっていましたが、このくらいの時期は謎の充実感を得ていました。

ただ、私も所詮は劣等性だったのでしょう。

ここで教授にこれまでの恨みを晴らそうと思いました。今ではこの教授にも感謝をしていたのですが、私も子供だったのでしょう(24歳でしたが・・・)。

しかしお礼参りみたいな高校生みたいな事はしません。

復讐方法は簡単で、3月に卒業旅行を2回行くという「サボり」を行いました。

私の研究室は3月も当然のように研究活動をする必要がありますが、もう卒業要件を満たしているので最後の反抗チャンスになります。

隣の研究室の男子3名と一緒にマレーシアに行き、学部時代の同級生と台湾に行きました。

マレーシアは本当に最高でした。永住したいと本気で思ったのは今でもあそこだけですね。

そこで男4人で1つのベッドで寝るなど謎の男子高校生感を出していましたが、この旅行が帰ってきたときにメールを見たら教授からきちんと連絡が来ていました。

あまり内容は覚えていませんが「~~と○○の実験結果を大至急取ってください。期日は××です」みたいな感じでした。

正直言うとすぐにやれば間に合ったのですが、なんと私はこれを無視しました!!!

圧倒的解放感!!すさまじくドーパミンが出てスカっとしたのを覚えています。

修了式~事件の日

そして修了式になります。ここには教授は来なかったので最後の反抗について叱られる事はありませんでした。

昔っからこういう運だけは良いんですよね。なにかと逃げ切れるというか・・・私の転職は泥棒かも知れませんね。

まぁ修了式では同期3人で記念撮影をしたりと、本当に普通の1日を過ごしました。

そこから全員で研究室に向かったのですが、その途中で博士課程に進む同期から「Yさんは失踪したよ」ということを聞きました。

まじかよ・・・。なんでも私がマレーシアに行っている間に教授の部屋に行き、外の部屋にも聞こえるほどの教授の怒号のあとにYさんがどこかに行ったらしいです。

私はその場にいなかったのですが、他の研究室からも何事かと人が出てくるほど事件性のある大声を出していたようです。

教授は退学を勧めたらしく、おそらく「もう指導する気はないからやめたほうがいい」みたいな事を言ったのでしょう。

Yさんの両親から研究室に「どこへ行ったか知らないか」という電話があったようですが、当然知る由もありません。

今生きているのか、もしくは亡くなっているのか私には皆目見当がつきません。

Yさんの素行も決して褒められたものではありませんが、彼が幸せに生きている事をただ祈るしかありません。

Yさんの行動を詳しく書いているのはこちらの記事になるので、興味がある人は是非読んでみてください。

まとめ

如何だったでしょうか。

恐らくブラック研究室の中ではそこまでレベルの高い方ではありません。レベルってなんだよとは思いますが。

私の知っている研究室でも人数分の寝袋が用意されている研究室とかありました。月に1度帰れるかどうかみたいなレベルの研究室もザラです。

しかし、私が所属していたレベルのブラック度でもかなりきつかったです。その分能力は伸びましたがあまりオススメはできません。

たまにYさんのように帰ってこれずに社会の暗闇に溶け込んでしまう人もいます。

ちゃんと指導してくれる教授がいて、適切な活動を適切な量だけ実行できる研究室に所属すべきです。

この記事が研究室選びに悩んでいる人の一助となれば幸いです。

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